慶性院の水天像は、江戸時代後期に当山第19世である慈賢和尚が建立したものです。
水天は、世界を守護する十二天のひとつで、水難除けや雨乞いの祈願の対象となるため、池や川のほとりに建てられることが多く、芋窪移転前は上石川の畔で水護りとして祀られていたものと思われます。
水天像は全国的にも例が少なく、都内に存在する三基のうちの一基であることから、昭和58年(1983年)に東大和市より市重宝に指定されました。
境内鬼門にお祀りしている白山大権現の鎮守社です。白木の鳥居は古式に則り、1本の樹から建てられたものです。
当山山号の由来である白山大権現ですが、大正時代の村山貯水池建設に伴う芋窪移転に伴い長らくお宮がなくなっておりました。平成8年(1996年)5月に当山第26世光弘和尚により復興され、今再び境内をお護りいただいております。
鐘楼右側に建っているのが奥の院「薬師堂」です。薬師如来立像を中心に日光・月光菩薩と十二神将が祀られております。
当山の薬師如来像は「善名称吉祥王如来」といい、薬師如来がご利益を発揮する時の化身の一つです。作者や年号の記録がなく、正確な時期は分かりませんが、作風から安土桃山時代の作と思われ、当山開基の頃に造られたものと推測されます。
毎年4月8日の花まつりでは御開帳を行い、そのお顔を拝んでいただくことができます。また、檀家の方にはお薬師様に五穀豊穣・諸人快楽をご祈願したお札を頒布しております。
当山鐘楼にかかる初代の梵鐘は、衆病悉除を希う薬師如来信仰の講中施主となり、江戸時代中期の正徳元年(1711年)に奉納されました。以来233年の間石川谷に鯨音を発し、狭山三里に響き渡ったと言われています。
しかし、昭和19年(1944年)春に太平洋戦争下護国の鐘として献納したことから、その後長く鐘楼のみ置かれ、老朽化が進んでいました。
昭和43年(1968年)当山第25世義昭和尚が復興を発願し、賛同された三百余名の檀信徒寄進により、鐘楼の修復と重量140貫(約525kg))の梵鐘を新造しました。
毎年大晦日に行う除夜の鐘では、檀信徒のみならず、多くの参拝者が新しい年への願いを込めてこの鐘を撞かれています。
また、鐘楼脇には昭和56年(1981年)から昭和59年(1984年)に渡り、弘法大師1150年御遠忌記念事業として、弘法大師・興教大師厨子新造、本堂並びに薬師堂修理、境内整備等を行った際の記念碑が建てられています。
境内参道脇にある「おつげ乃樹」は大変珍しい柘植の人面木です。お参りの際には、手を合わせてみてください。語りかけてくれるかもしれません。
大師堂の脇にある記念碑は、当山が村山貯水池建設に伴い移転したことを記すものです。総本山長谷寺第58世能化・真言宗豊山派2代目管長・大正大学2代目学長を務められた権田雷斧大僧正が書かれた文が彫られています。
経軌にはありませんが、寺伝では足利将軍家の尊崇を得たといわれる将軍地蔵です。
大正時代村山貯水池上湖北西湖畔から移転の際、境内にあったご神木ともいわれる大イチョウから株分けされたイチョウの木です。このうち、1本が昭和51年6月に東大和市保存樹木第18号に指定されました。翌昭和52年4月には第111号、第112号として追加指定され、3本全てのイチョウが保存樹木となっています。
門前の道路わきにある石橋供養塔です。形状は山塔角柱で、高さは113cmあり、正面に「石橋供養塔」とのみ刻まれています。村山貯水池に沈んだ石川谷から移転したものです。
狭山丘陵周辺の石橋供養塔は、18世紀後半から19世紀前半の間に集中的に造立され、架橋技術が発達した明治期にはほぼ見られなくなり、その役割を終えたと考えられています。特に寛政期(1789年~1801年)造立のものが多いですが、本石橋供養塔の造立年は不詳となっています。
石橋供養塔は小河川の上流域に多く、これは当時の石材の長さに規制されるためで、川幅一間から二間程度の場所に限られて石橋が造られたことに由来します。
江戸時代当山があった上石川は、石川の上流域に当たり、ここに架けられた橋の安全や渡る人々の無事を祈って建てられていたと考えられます。現在の地に橋はありませんが、門前を行き交う人々の安全を見守っています。
墓地へ向かう参道脇にある金剛界大日如来の石仏です。全国の大日如来の1%しか存在しないともいわれる逆智拳印を結んだお姿をしています。
享保8年(1723年)に造立され、丸彫で高さは134cmあります。
本塔正面には「奉納日待供養」、台石正面には「石川谷 所願成就□」「享保八癸卯天七月八日」と彫られています。